WILL・CAN・MUSTの法則を知っていますか?
英語のそのままの意味どおりです。
これは会社の中でも人材開発系、人事まわりでよく使われる言い回しです。こんな感じで。
新入社員のみなさん、ちゃんと意志(WILL)を持って目の前の仕事と向き合いましょー。中長期的なWILLを持つ人が仕事の成果を挙げるんですよー。え、みなさんWILLがないって?大丈夫、大丈夫。若手のうちは、上司から上から仕事が降りてきますから。つまり、みなさんが会社員としてやらねばならない仕事(MUST)のことです。これをちゃんとクリアしていきましょうね。MUSTはつまらないかもしれません。でも、MUSTをやっていくうちにみなさんのできること(CAN)は着実に増えていきますよー。できることが増えたら自分に自信が出て、その頃にはみなさんにはちゃんとWILLが生まれていますから…。
こんな話を会社に入ってから聞いたことがあるかもしれません。
「そっか。今はまだ仕事において夢も目標もないけど、とにかく目の前MUSTを頑張ってCANを増やそう!」
そう教えられてきた人たちも多いはずです。
でも、これっておかしいんじゃないの?というのが今回のお話。
WILLとは、どこから生まれるのか
この違和感は僕自身の経験から生まれました。
新卒入社してからの4年半。僕は巷的にはブラックと言われるような労働環境で、プライベートの時間までも仕事に費やしてきました。定時出社定時退社の会社に比べたらそりゃあもう多くの時間を働いていたわけです。
しかし、本当に厳かなWILLが生まれたのか?と言われれば答えるまでもありません。
確かに、できることが増えたら次はこんなことしてみたいなというWILLが生まれることもあるでしょうが、僕は自分の仕事を天職だとか一生の仕事だとか神格化したことはありませんでした。そうは思えなかった。
おそらくそれは一番最初まで遡る必要があって。
何が言いたいかというと、興味関心が強くなければどんな仕事でも、どんだけ時間を費やしてもWILLなぞ生まれない。ということ。
シンプルにMUSTから(CANを経由して)WILLに昇華するなんてすごい話。僕らは子供の頃から、好きなものや楽しいもの、憧れによって心を動かされてきたように思います。僕は子供の頃、プロ野球選手になりたいと本気で思っていました。当時はテレビで野球中継が毎日のように放送されていて、テレビの中で投げて、打つ選手たちは憧れの的でした。もちろん、そのWILLに向けて純粋に努力し続けられるかは別として、WILLはこうした感情から芽生えるんじゃないでしょうか。
- 漫画が好きだから将来は漫画家になりたい!
- 熱中するあまりあっという間に時間が過ぎてしまった。もっとやりたいな。
- イチロー選手みたいなプロ野球選手になりたい。
楽しさや喜びや興奮などのポジティブな感情からスタートしてWILLが生まれていました。しかし、MUSTって言葉の意味から考えるに、自分から進んでやりたいという前向きな感情は含まれていないはず。つまりネガティブ、後ろ向きな物事を形容する言葉です。そうしたネガティブなMUSTというものからなぜ会社組織のWILLが生まれうるのか。
「MUST→CAN→WILL」なんていうループは生まれようがないと思うのです。
自分が求めていないCANって誰がHAPPYなの?
「WILL・CAN・MUSTの法則」の中では、自分のできることが増えたら嬉しいよねという前提が含まれます。自分って、何もできないと思ってたけどこんなことができるんだな。これを人のためになるんだ、みたいな。
それは確かに嬉しいかも。嬉しいかもかもだけど、本当は嬉しくないかも!?というパターンの方が実は多い。
すごくシンプルな話をすれば、英語を自由に話せるようになりたいと思って毎日英会話学校に通っていたのに、学校に毎日遅刻せずに行く規律性が身について先生から褒められた。でも、英会話力はまだまだ。という場合、本当にそのCANは嬉しいのだろうか。規律性がUPすれば英会話力がUPするという相関関係があるならいいのだが、果たして規律性UPに意味があるのだろうか。
パワプロで言うならば、投手をサクセスモードで育てたが、結果的にパワーがAになっちゃった。でも自分はDH制のパリーグでこの選手を使う予定…。打席に立たない投手がホームランを打てる力を持っていても宝の持ち腐れだ。それならもっと違う能力にエネルギーを割くべきだと考えるのは当然。
MUSTの生産性
会社員では、というか社会人になれば常に生産性の向上は至上命題になる。いかに少ない投資、インプットで最大限のアウトプットを生み出せるか。それが資本主義的な価値観において好評価につながるようになっている。多くの会社では上司から口すっぱく言われるか、自分の意識化で常に生産性について自問自答を繰り返します。
この生産性という観点からMUSTを捉えると、圧倒的に非生産的だ。無駄が多くなる。なぜなら先述したように前向きな気持ちがないから。嫌々渋りたい気持ちを抱えながら取り組まなければならない。「完遂する」という責任感から生まれる前に進めるための気持ちと「やりたくない」と自らブレーキをかけてしまう後ろ向きな気持ちが同居する。プラスとマイナスだから、せっかくのプラスが弱められてしまう。
それなら好きなことだけをやっている方がいい。そこにはマイナスな気持ちが一切ないはずだから。
MUSTの捉え方も人それぞれ。A君にとってはMUSTでも、B君にとってはWILLなんてこともあるはずで、生産性を突き詰めるのであれば、適材適所で仕事は与えられるべきだ。
新入社員を会社に踏みとどまらせるさせるための”まやかし”だ。
社会では新入社員や若手社員がWILL・CAN・MUSTの法則の餌食になっている。会社は社会を知らない新卒社員を、いかようにも自社色に洗脳できてしまう。結局のところ、この法則は価値が低く、給与との費用対効果が合わない雑務を費用の安い若手にやらせるための口実でしかない。そうしたつまらない仕事を浴びせられ会社をドロップアウトされないように会社に縛り付けるための”まやかし”でしかない。
若手たちは従順にWILL・CAN・MUSTを実践しようとするが、数年後違和感に気づく。でも今さら会社をドロップアウトするのに腰が重くなる。数年働いてきた会社の居心地がいいからと偽物のWILLを作り上げ自分を偽ってしまう。嬉しくもないCANを喜ぶべきことだと無意識に思い込み、CANの中から全く興味のないWILLに挑戦させられる。
そうして、仕事をすること働くことを心から楽しめない大人たちが生まれて行くのではないだろうか。