赤提灯に惚れた男、ひかるです(@hikkaroo)。どうも。
東京都出身のシティボーイです。死語です。
偏差値45から宅浪を経て私大最上位の早稲田大学政治経済学部を出ました。
社員数3名の零細ベンチャーに新卒一期生で入社、組織開発コンサルタントとして企業の人材採用・育成・人事制度構築に携わっていました。
社内的には採用リーダー、後輩育成担当として直接的な組織づくりも担う。社内外どちらにおいても組織をつくる仕事だったものの、組織であることの限界を感じたため退職、2018年1月より無職。
個人の可能性を見出すべく、会社員ではない人生を歩むことを選びました。
2018年1月25日にブログスタート。料理を中心に、それ以外にも好きなものについてつらつらと書いています。
特に、大衆居酒屋で出される料理や肉料理を自宅キッチンで再現する的な料理を好んで作っていて、ブログで発信しています。
料理の醍醐味は「つくる」プロセス自体に楽しさがあるだけでなく、料理したものを「食べる」楽しさもあること。そして料理で人に喜んでもらえる「振舞う」こともできるハッピーツールが料理です。
テクノロジーが進んでいくこれからの時代、料理の「専門化」「娯楽化」はますます進んでいきます、間違いなく。
かつて料理は生きていく上で必要不可欠なものでした(家庭を預かる主婦が家族のために料理するような)。
しかし、今では外食や中食、さらにはUber Eatsのような配達サービスが目まぐるしく進化しています。
近いうちに誰しもが料理は”嫌々”しなくていい時代がきます。
確かに料理は時間を要する作業です。料理をすることが面倒臭い、非効率と感じるなら他のサービスを使える時代がきています。
それでも料理というツールは絶対に無くなりません。
嫌な人は料理をしなくなりますが、料理をしない人たちには美味しい料理を作ってくれるプロ料理人の存在は必要不可欠です。
社会全体でテクノロジーが進む時代の中で非効率なものは淘汰されていき余暇が増えていきます。
私たちは好きなことに時間を費やすことができるようになるわけです。旅行に行ったり、ドライブに出かけたり、美味しいご飯を食べに出かけたり。
余暇の過ごし方のひとつに「料理」は間違いなく存在し続けます。
食べることが好きな人もいれば、作ることが好きな人もいるからです。
料理はつくることと食べることを楽しみ、誰かを喜ばす事のできる素晴らしいものです。
料理に魅せられた一人として僕はこのブログを立ち上げることにしました。
これが僕が脱サラをして料理ブロガーに転身した理由です。
中でも「赤提灯系の大衆居酒屋料理」を「科学」で料理していきます。
なぜ料理と科学なのかは次のエントリーで詳しく。
しかーし、そう簡単にブログで稼げません笑。
そこでUber Eatsで配達パートナーもやっています。
これがまた素晴らしい働き方なんです。ゲーム感覚で楽しみながらお金を稼ぎ、しかも健康になっていくというおまけ付き。
「永遠の28歳」としていつまでも若くいたいので当面の収入源として頑張って配達やってます。
僕のストレングスファインダー(強み)です。

詳しくは次のリンクをどうぞ!
ひかるのことが分かる7つのキーワード
食
おいしいものを食べること、飲むことが好き。
我慢しなければ1食に米5合は食べられる大食漢。
生活費の50%は外食に消える。
食べログで美味しいお店を探しまくった結果、お店の面構え(外観、メニュー写真)だけで好み(ひかる的に美味い)の店かどうかを分かるようになる。
好きな食べ物は和食中心。ダイニングバーやバルなど、女子ウケする店は苦手。おじさんが集まる、古くてきったない赤提灯のお店が好き。
美味しいもの食べて、お酒飲んで昼間っから酔っ払うのが至高の休日。
料理
「お店で食べるのも美味しいけど、自分で作れたら最強じゃん」と思い立ち、料理にのめり込む。
客観的に料理が上手かは置いといて、1から手作りすることにこだわってます。
例えば、ラーメンは麺づくりやスープを炊くところから、カレーならスパイスだけで作るなど。家で魚をさばくところから握り寿司も。
美味しいもののためなら手間暇惜しまない。料理をしていることが楽しくてしょうがない、僕にとって料理は遊びです。
新しい
新しい物事や価値観を知る触れるとポジティブな気持ちが生まれます。
新しいものはやってみたくなるタイプ。
ビジネスとはテクノロジーを磨くフィールド。テクノロジー(ビジネス)によって「日常の無駄」は淘汰され、生活が圧倒的に豊かになると考えています。
最新のテクノロジーに興味関心が強い。伴って新しいビジネスも好き。
物事をロジカルに、合理的に考えるのが好き。
新し物好きが転じて飽き性。一つのことを極めたと胸を張れる経験なし泣。
古い
「無駄が削ぎ落とされてシンプルなもの、流行に左右されない普遍性があるもの」が好き。
古い、レトロ、哀愁漂うものを見つけると気になってしょうがなくなります。
「古き良き〜」みたいなものが好き。直近では古民家に住まうのもありと思っている。
”エモい”ロールキャベツ男子
つり橋をたたいて渡るビビりなので考えて行動する慎重さがありつつ感情的でもある。時たま、感情そのままに行動してしまう。
大学卒業時は「自分の英語でサバイバルできるのか?」を直感的に試したくなって初海外を3週間バックパックしました。思ってしまったら試してみないと気が済まない。
エモーショナルなものが好き。自分自身に「エモさ」があるのに普段はクールという意味でロールキャベツ。
あまのじゃく
「普通」「みんなと一緒」を好まない。多数が「A」を選ぶなら、無理やり理由を整えて「B」の選択肢を選びがち。
フォロワーになるよりも仕切りたがり屋。
荒んだ家庭環境で育った結果、物事をナナメから捉えてしまいがち。だけど、それが自分らしい個性でいいやと思っている。
みんなと群れてもつまんねと思っているけど、さびしがり。this is あまのじゃく。
ー好きなものリストー
- 食べもの:米、寿司、和食(特に大衆居酒屋のそれ)、肉、ラーメン、その他全般
- 飲みもの:日本酒(安い純米酒)、ビール(いや金麦で十分)、焼酎(芋のお湯割)、その他お酒全般
- 映画:エイリアン2、ターミネーター2、レオン
- 音楽:なんでも。お酒との掛け算で最強のツールになる
- モノ:「(品質が)いいものをずっと使い続ける」ミニマリズム。流行には乗らない、敢えて。
- ファッション:「シンプル、色、素材」がひかる的おしゃれの三大要素。流行には乗らない、絶対。
- 野球:広島東洋カープ(周りが巨人ファンばかりだったから)
- 言葉:若いですね(=子供のようにピュアな心をお持ちなんですねという意味と解釈する)
- ※嫌いな言葉:童顔ですね(=男としての色気が皆無ですねという意味と解釈する)
- ドライブ:高速道路はキノピオハイウェイと思ってしまいがち。安全運転第一。
ひかるの生い立ちをご紹介
ひかるの生い立ちもフラッシュバック(長め)でどうぞ!!
荒んだ家庭環境で出来上がるのはあまのじゃくな人格です
4歳の時、両親が離婚したところから始まります。母に引き取られ母子家庭です。
その後、母親の再婚と離婚などもあり「父親」と呼ばれる人が度々変わるような家庭で育ちました。
養育費がなかったためお金に困窮して生きてきました。
ミニ四駆、ポケモン、ハイパーヨーヨー。地域の野球チームにも入れない。
友達が遊んでいる流行りのおもちゃを後ろから眺めていました。
「自分も欲しいなー」と喉から手が出るほど願っても実現しないわけで、その時から「人と違くていいや」と思い始めたのかもしれません。
姉と弟3人兄弟の真ん中。母親の素行不良(笑)によって兄弟仲、母親とも仲が悪く・・・。
兄弟とは目を合わせれば取っ組み合いのケンカ、夜中まで家の中を飛び交う怒号。
家庭崩壊とはまさにウチのことです。
幼い頃から成績優秀な僕でしたが、家庭環境のストレスからか中学校の2者面談で「授業中先生を睨みつけるな」と言われたことも笑。
あまのじゃくでロックな少年に育ちました。
中学校では人生観が作られる2つの出来事があった
幼い頃から記憶力がよくて勉強はよくできました。
授業だけ受けてればテストは楽勝だったので通知表は「5」がつかないのが珍しかった〜(自慢)。
野球部に入って練習含めて試合数は年間200ぐらい、3年間野球づけの毎日。
家庭とうって変わって学校での青春はそれはそれは充実していました。
入学当初は目立ってやろうと思い学級委員なるものに立候補するものの見事に失敗。
中学校って悪いやつがモテるんですよね、優等生はモテない・・・!!(後にキャラチェンジ)
学級委員をやっていて忘れられないことがあります。朝、担任から廊下に呼び出されると、廊下にはパジャマ姿のクラスメイトが。
彼を制服に着替えさせる手伝いをしました。
彼は自閉症だったのですがご両親、学校の意向で普通学級に通っていました。
学級委員の僕が彼の学校生活のフォローを任されたのでした。
とはいえ、何をどうしたらいいのか分からず悪戦苦闘する毎日で、体育の時間には体操着に着替えるのを手伝ったり、教室移動には手を引いて一緒に行ったり。
女子にモテたいというよこしまな理由で学級委員になった僕には荷が重かった。
最終的には特別学級のある学校に転校してしまったのですが、転校する時に彼からもらった「ありがとう」の言葉と力強い握手は今でも忘れられません。
もう一つ自分の人生観を形成する大きな出来事がありました。親友の死です。
中学一年生の時でした。親友はサッカー部で部活こそ違いましたが自閉症のクラスメイトのフォローを一緒に手伝ってくれたことで意気投合していました。
クラスメイトのフォローによって大切な野球部の練習に遅れることもあり、僕は親友に愚痴ることもありました。
僕の愚痴をたしなめ、一緒に頑張ろうと励ましてくれためちゃくちゃ優しい奴でした。
そんな親友がある日、部活後にサッカー部に遊びに行くと意識がなく倒れていました。
僕は目の前の光景が信じられず、何もできず立ちすくんだまま帰らぬ人になってしまいました。
それから、生きてきた中で身近な人と二度と会えなくなるという経験はなく悲しみとともに「死」や「生」について考える毎日になって。
「彼の分まで一瞬一瞬を全力で生きる。人の人生が終わる瞬間『ひかると出会えてよかった』という関わり方をしたい」
僕が導き出した人生の指針です。
ロックか?ロックじゃないのか?に真剣な高校時代
人生観などとカッコつけたものの、高校時代は人生を諦めている自分がいました。
中学で野球をやってきた少年は誰しもが甲子園を目指したいもの。僕も例外ではありませんでしたが、家庭にお金がないために野球部は断念。
奨学金をもらいながらアルバイトをして高校の学費を捻出することになりました。
高校でも野球を頑張っているチームメイトが羨ましく、幼少期以上にお金がないことの苦しさ、執着心が強くなったのがこの時。
高校入学よりも先にアルバイトを始め、土日は朝から晩まで働いていました。
学校生活の中で目標を失った僕は次第に授業にも出席することが減り、遅刻と欠席が増えました。
不登校というわけではなく単純にバイトで疲れて寝坊してしまってたんです。朝起きてテレビをつけると「笑っていいとも!」が始まっている毎日です。当初はやばいやばいと焦って学校に向かってましたが、次第にいいとも!を見終わってから向かうように。「目指せカッちゃん甲子園!」「打倒、陵南!」みたいな目標のない日々だと人間だらだらとしてしまいます。
当時の僕は遅刻と欠席をすることがかっこいいと思っていました。
高校ではロックバンドを組んでいたのですがカタチから入る僕は自分の行動を決定していた基準は「やろうとしていることはロックか?ロックじゃないか?」でした。
「ロック=反抗する」と信じていたので、遅刻する、授業に出ない、集団と群れないことがかっこいいと思っていたんですよね。
文化祭のバンドライブを無断で申し込んで軽音部の先輩に怒られ「部活くそじゃん!」とその後学校のライブ活動をしない強がりをしました。
意地を張らなきゃよかったなあ笑。でも、後から振り返るとバカらしく感じるけど、当時は真剣だったことって誰しもあると思うんですよね。僕はそれでよかった。
若さゆえですが、当時の言動は僕が一生懸命大切にしていたことだったので後悔はしていません。
学業に身が入りませんでしたが学校は好きでした。友達に会えることに加えて体育祭限定の応援団活動があったためです。無理やりバンドに勧誘した友人や応援団でクラスメイトとは今でも仲良くしてくれるのは本当に感謝です。
そんな調子だったので、成績優秀で「10年に一人の逸材」とまで中学で言われていた頭脳明晰な僕は影を潜め、対して頭のよくない学校の中の、さらにクラスで最下位を争うような学力でした。
大学進学とか経済的にできないし勉強しても目標ないからオールOK。
そんな僕は恩師の言葉で変わりました。
彼は大学進学を僕に勧め、その勧めを嫌がる僕に母子家庭むけの奨学金の話を持ってきました。
「母子家庭だから大学に行けないのではない、母子家庭だから大学にいける道もある。自分の人生を変えたいなら大学に行け」と。
僕は最初から調べも考えもせず「貧乏=お先真っ暗」と勝手に諦めていたのですが、自分からチャンスを掴みに行けることを知りました。
お金がないことではなく、何も知らない無知であることが人生の多くのチャンスを逃していることを実感しました。
知識がどれだけ自分自身を変えるか。
先生にもらったキッカケから自分を変えようと受験を決意しましたが、結果は惨敗。もう1年だけやってみることにしました。
自分の人生を生きていることを実感した浪人生活
予備校に行くお金のない僕は自宅浪人を選択。
「頑張るぞー!」みたいなみんなでハチマキしちゃう予備校の雰囲気は嫌いだからお金があっても行ってませんでしたが。
朝から夕方まで図書館で勉強、それから深夜までバイトして生活費と受験費用を捻出しました。
高校のクラスメイトのほとんどは現役進学していたので学校内でも浪人するのは珍しいという環境。浪人生活は茨の道だと思っていました。
ところがやってみるとこれが楽しくて。小学校から高校までは多くの人が通る道いわば「敷かれたレール」です。
宅浪となると勉強するのも、アルバイトするのも、気晴らしに遊ぶのも全部自分の裁量と責任。
自分でレールを敷いている感覚でした。
ドキドキしながらもその毎日が楽しくて宅浪は自分にあっていたのかもしれません。
夏フェスにいったり、彼女と旅行にいったり徹底的に遊び勉強をした結果、第一志望の早稲田政経に合格。最高の1年間でした。
彼女に20万円の思い出プレゼントをした記憶しかない大学
あまのじゃくな僕はバラ色の大学生活を送りません。
進学校出身であることをひけらかすやつ、将来を見越して人脈づくりのために人付き合いするやつ、そんな鼻につくやつが多かった。
今となってはみんないいやつだったのかもしれませんが、荒んだ家庭環境で性格が歪んだ僕にはイラっとしました。
そんなこと考える僕の方が鼻につきますね笑。
大学では奨学金をもらいながらも足りず、大学で過ごす時間よりもアルバイトの時間が長い。
居酒屋やフェスの飲食スタッフ、無印良品でのアルバイトなど色々やりました。
1番の思い出は大学一年の冬。浪人時代から付き合っている彼女にサプライズクリスマスを計画したこと。
「一生忘れられないクリスマスにしよう」をコンセプトに決め、彼女が好きなディズニーリゾート2泊3日に総額20万円ほどかけました。
ディズニーランドホテル、ホテルミラコスタのいい部屋を押さえ、レストランの予約、深夜0時ぴったりにケーキのルームサービスなどなど・・・徹底的にプランニングしました。
お金に物を言わせ贅沢の限りを尽くしたのですが、その代償としてアルバイトに邁進したところ授業の単位を半期で20単位を落とすことに。
プレゼントはとても喜んでくれたし楽しかったのだけれど、その彼女とは別れてしまった今、僕にとって「一生忘れられない」クリスマスになったのは間違いありません笑。
「やるからには徹底的にやる」「人を驚くぐらい喜ばす」ことが楽しいんだなと気付かされた経験です。
早稲田政経の僕が就職先に選んだのは零細ベンチャー
進学校出身者が鼻につくといっていたのに見出しに出身大学をドヤ顔で書く僕は、零細ベンチャーに就職しました。
当初は早稲田政経というブランドを使いまくって超大手企業で働こうと思っていました。
それはお金に執着していたからです。浅はかな僕はデカイところでデカイ仕事をすれば「稼げる」と思っていたのです。
ただ同時にそれでいいのかという自分もいました。
こコマでプロフィールを読んでいただいた方にはお分かりの通り、僕は矛盾をはらむ人間です。
新しいものが好きだけど、古いものも好き。ブランド嫌いだけど自分のブランドは使いたい。
最終的に出した答えは「ブランドを背負うのではなく、ブランドを作ろう」ということでした。
給料はいいがすでに出来上がった会社で社員数「1万分の1」の歯車になる。小さな場所で自分の影響力で会社を作っていく、大手じゃなくても結果が出たら稼げるんじゃないの?
ワクワクしたのは後者でした。裕福な生活よりも、親友の死から生まれた目の前の人を動かす人になりたい。
そこで社員数3名、創業3年目のスタートアップベンチャーを選びました。
入社前から仕事をしていましたが、オフィスに泊まり込みで働く毎日です。
朝も夜もなく、土日も仕事。
スタートアップなんてどこもそんな感じですが、社会人になっても青春している感覚です。
「圧倒的な仕事量が自分自身を成長させる」そう社長にハッパをかけられ続けた僕は始発電車で誰よりも早く出勤し終電で帰る生活を自ら強いていました。
間違いなく体力的にキツかったのですが、努力はいつか報われると我慢し続けていたある日、身体を壊し休職することになってしまいました。
就職してから実家を離れ食生活が荒れていたこと、何よりも過酷な働き方が原因です。
倒れるところまで自分を追い込んだことがなかったので、ここまでやったらぶっ倒れるんだなと痛感しました。
わがままに3ヶ月も休職させてもらったのち復職。
それからは健康管理に気をつけながらもハードな生活は続いていました。
退職を決意して大きな人生の岐路に立つ
僕が選んだ仕事は組織開発系のコンサルタントとして企業の人材採用・育成・人事制度構築に携わるもの。
同時に社内では採用リーダー、入社する若手たちの育成担当として直接的な組織づくりも担う、平たく言えば社外的にも社内的にも組織をつくるポジションです。
振り返ってみると気づけば社会人生活5年目を迎え、社員は20名を超えるまでになっていました。
しかし、自分たち独自の組織論を掲げ企業に発信していく中で、社内メンバーにも組織論を浸透させていく中で、いつの間にか自分の中に違和感が生まれていました。
「自分自身、仕事を楽しめているのだろうか?」「これからの時代、組織の在り方は大きく変わるんじゃないか?」
外から見たら過酷な労働環境なのにそれが当たり前だと思い込もうとしていた、そして仕事をしていく中で組織の弱さや限界を痛感していた自分がいました。
その違和感に気付きながらも「リーダーの自分がそんなことを言っていられない」と自分の気持ちを閉じ込めていた。
「組織のため」を合言葉に自分の気持ちに素直にならない、個人が蔑ろになってしまうことは組織にとって有益なことなのだろうか?
ワクワクしたくて選んだ仕事を楽しめず、組織を引っ張るという責任だけで働いていることは個人にとって幸せなのか?
これまでの人生を振り返ったとき、ここで働く「今」を楽しめているかという問いにNOと言わざるを得ませんでした。
それから社内で組織と個人の関わり方について変えていこうとした中で、最終的には僕自身が退職することを選びました。
組織を引っ張る立場の自分が組織を離れることにとても悩みました。
残された後輩たちはどうなるだろう?でもその考え自体が、自分を蔑ろにしてしまっているなと。
全体最適、組織のために個人が動くのは、完全に組織というシステムの”バグ”です。
組織の可能性を考えてきたが限界がある。それじゃ、個人の可能性はどうか?
この問いを見出すべく、会社員ではない人生を歩むことを選びました。
責任とかプレッシャーとか肩肘張らずに、自分の気持ちに素直に、目の前のことを楽しめばいいじゃない!
それが僕が今大切にしたいことです。その気持ちをブログという手段で表現しています。
父親との突然の再会
そんなこんなで会社を辞めた僕は食と料理をテーマとした「ひかるぶろぐ」をスタートさせることを決めました。
そんな時に、実父から連絡がありました。4歳の時に別れたあと、音信不通になっていた父親からです。
もう一生会えない人と思っていたのでびっくりしましたが、入院しているから会いにきて欲しいという父のお姉さんからの連絡でした。
20数年ぶりの再会にも関わらず、数時間の面会で交わした言葉は片手で数えるほど。
父はこれまでどんな人生を歩んできたのか、僕はどんな人生だったのか、話すこともなく再会した数日後に父は亡くなりました。
このタイミングでなければ生きている父と再会することは叶わなかった。
会社員時代は年末年始に実家に数年も帰らず仕事を優先させていた僕は会社を辞めたことで父と再会することができたのです。
再会した父と話せたことはほとんどありませんでしたが、会社を退職した瞬間、亡くなる前に再会できたのは運命めいたものを感じてしまいます。
その後、父の遺品を整理していると手帳には僕たち子供の誕生日が毎年書き込まれ、僕が幼い頃にプレゼントした手紙や絵などが出てきました。
ちゃんと気にかけてくれていたことに嬉しくなりました。
びっくりしたのが次のものが出てきたとき。

大量の手書きノートです。そこには料理レシピがびっしり手書きで書かれていました。
父のお姉さんの話によると離婚したあと料理を始め、一つひとつノートに記録していたといいます。
お店に食べにいくのも好きだったようで気に入った店の情報も記録されていました。
僕が食と料理が好きなことはプロフィールの冒頭に書きましたが、父も同じだったのです。
父を意識しながら生きてきていません。それなのに、同じものが好きになるなんてなあ・・・。
親子の血は争えないのね。
僕が「ひかるぶろぐ」を始めることにした矢先、父のレシピノートが見つかるなんて偶然にしては出来過ぎィィ!!
亡くなってしまった今、父の人生を知る手掛かりがこのレシピノートに詰まっています。
ひかるぶろぐの中でも父のレシピノートから再現料理をしていきたいと思います。
ひかる